2026/10/05
法務情報
SNS誹謗中傷対策としての慰謝料の引き上げ検討(弁護士:中川 正一)

「安すぎる慰謝料」の見直しが始まります
法務省が民法の不法行為規定の見直しに乗り出します。
日本経済新聞(2026年9月29日)によれば、山下貴司法相は閣議後の記者会見で、有識者による研究会を立ち上げると明らかにしました。
SNSでの誹謗中傷が深刻になるなか、慰謝料を被害に見合う水準に引き上げ、被害者を救済できる規定のあり方を考えるとのことです。
研究会は月1回ほど開かれ、法制審議会への諮問を視野に法改正をめざします。
不法行為に関する民法の規定は、1896年の制定以来ほとんど変わっていません。
被害の重大性、権利侵害の悪質性、投稿の拡散規模などを、賠償額を判断する要素として法律に書き込む案が浮上する可能性もあります。
法務省は、現時点では具体的な金額の基準を示さない方針だといいます。
現時点で公開されている「インターネット上の名誉権侵害等の損害賠償額等に関する調査報告書(法務省民事局(令和8年4月))、「インターネット上の権利侵害における損害賠償請求に係る外国司法判断の実情に関する調査研究報告書」(公益社団法人商事法務研究会(令和7年度法務省委託研究、令和8年)の資料から検討の基礎となる状況を確認してみたいと思います。
1 数字が示す日本の現状
法務省民事局の「インターネット上の名誉権侵害等の損害賠償額等に関する調査報告書」(2026年4月)は、名誉毀損などを認めた判決203件を分析しています。
主にネット上の事案(118件)では、認容された慰謝料の平均は47万円、中央値は30万円でした。
30万円未満が約47%を占めます。
新聞・雑誌などマスメディアによる事案の平均161万円と比べると、およそ3分の1にとどまります。
費用との釣り合いもよくありません。
匿名の投稿者を特定するには、プロバイダに対する発信者情報開示手続が必要になります。
その弁護士費用は数十万円に上ることも多いのですが、判決で全額が認められたのは約3割でした。
慰謝料が低い事案ほど、開示費用の認容も抑えられる傾向があります。
被害者が勝訴しても手元にほとんど残らない、という指摘には根拠があります。
この数字だけを見れば、「日本の慰謝料は安すぎるので、上げるべきだ」という結論は自然に思えます。
ただ、海外の実情を並べると、別の面も浮かび上がってきます。
2 海外では確かに高い場面があります
もう一つの報告書は、法務省の委託を受けた商事法務研究会による「インターネット上の権利侵害における損害賠償請求に係る外国司法判断の実情に関する調査研究報告書」(2026年)です。
イギリス、ドイツ、フランスの研究者・裁判官・弁護士に、日本の裁判例をもとにした7つのモデルケースを示し、自国ならいくらになるかを尋ねています。
事実を摘示する重大な名誉毀損では、日本より高い水準が示されました。
新聞が十分な取材をしないまま市長の談合関与を報じた事案は、日本の判決では600万円でした。
イギリスの回答は10万〜15万ポンド(※)です。
著名な経営者を「カルトビジネス」とSNSで名指しした事案は、日本ではわずか10万円でしたが、イギリスでは数千〜数万ポンドとされました。
イギリスの回答者は「日本の賠償水準は低すぎる」とまで述べています。
自殺した少女の母親について、ハッシュタグを付けて虚偽の養育批判を10回投稿した事案も同様です。
日本の120万円に対し、イギリスは1万〜5万ポンド、ドイツは5,000〜7,500ユーロ(※)でした。
犯罪や重大な不正を摘示し、人の評価を実際に傷つける投稿については、日本の金額が見劣りするのは確かです。
______
※【2026年9月平均レート】1ポンド=約210円、1ユーロ=約180円
3 日本では認められ、海外では認められない表現
ところが、同じ調査には逆の結果も並んでいます。
感染症専門医に対し、匿名アカウントが「Xは犯罪者!ワクチンを推奨し承認した政治家も犯罪者だ!」と1回だけ投稿した事案があります。
日本の判決は30万円を認めました。イギリスの回答は「不法行為は成立しない」というもので、ワクチンをめぐる論争の文脈での意見表明だと評価されました。
「受任する弁護士はいないのではないか」という声まであります。
ドイツでも、金銭補償が認められる可能性は「ほぼない」とされました。
在日外国人の発言を引用し、ブログに「敵国人め、さっさと祖国へ帰れ」と1回書いた事案も同じです。
日本では100万円が認められています。
しかしドイツの回答者は、本人の公開の投稿への反応として書かれた意見表明であり、禁止することはできないと述べました。
イギリスでも、反復性がない以上、ハラスメントとしても認めにくいとされました。
この事案で賠償額を引き上げる方向を示したのは、フランスだけです。
自宅と受け取られかねない室内写真をブログに載せた事案(日本で30万円)でも、ドイツは金銭補償に否定的でした。
解釈が分かれる表現については、金銭補償を判断する場面では加害者に最も有利な解釈を採るのが実務だといいます。
つまり、海外は日本より一律に手厚いわけではありません。
重大な事実の摘示には高額を払う一方で、論評や単発の侮辱には賠償自体を認めない。その線の引き方が、日本とは大きく異なるのです。
7つのモデルケースのうち、名誉・プライバシー侵害に関する6件について、日本の判決と各国の回答を整理すると次の表のとおりです。
| 事案 (モデルケース) | 日本 (判決) | イギリス | ドイツ | フランス |
| 新聞が市長の談合関与を十分な取材なく報道(名誉毀損) | 600万円 | 10万~15万ポンド | 1万〜1.5万ユーロ程度(金銭補償が否定される可能性も) | 1〜1万ユーロの範囲内 |
| SNSで著名な経営者を「カルトビジネス」と投稿(名誉毀損) | 10万円 | 数千~数万ポンド | 弁護士は認容困難、裁判官は2万〜3万ユーロ | 1〜1万ユーロの範囲内(名誉毀損か侮辱かは微妙) |
| 自殺した少女の母親をハッシュタグ付きで虚偽批判(10回、名誉毀損) | 120万円 | 1万~5万ポンド | 5,000〜7,500ユーロ | 1〜1万ユーロの範囲内(発信者情報開示が困難) |
| 感染症専門医を「犯罪者」と1回投稿(名誉感情侵害) | 30万円 | 不法行為不成立 | 金銭補償はほぼない | 侮辱(発信者情報開示が困難) |
| 在日外国人に「祖国へ帰れ」とブログに1回投稿(名誉感情侵害) | 100万円 | ハラスメントとしても認めにくい | 意見表明として否定 | 差別的侮辱として増額方向 |
| 自宅と誤認させる室内写真をブログに掲載(プライバシー侵害) | 30万円 | 日本と大差ない可能性 | 金銭補償は否定的(差止めは可能性高い) | 私生活侵害として賠償可 |
※出典:商事法務研究会「インターネット上の権利侵害における損害賠償請求に係る外国司法判断の実情に関する調査研究報告書」。各国の数値はインタビュー回答に基づく目安です。同報告書のイギリスの章では、30万円を約1,400ポンドと換算しています。
4 表現制約の側面
この違いの背景には、表現の自由との緊張関係があります。
欧州では、損害賠償は表現の自由に対する制約になると理解されています。
イギリスでは、賠償額が欧州人権条約の下で正当化できる範囲かどうかが意識されます。
フランスでは欧州人権裁判所の影響を受け、名誉毀損で賠償を認める判決自体が減り、額も低めに抑えられています。
イギリスはかつて名誉保護に偏りすぎていると批判され、2013年の法改正で「深刻な被害」を提訴の要件に加えました。
今も、威嚇や萎縮を目的とするスラップ訴訟への懸念が残っています。
ドイツの考え方も示唆に富みます。
人格権侵害への金銭補償は「最後の手段」とされ、まず差止めや訂正で回復できないかが問われます。
小規模なSNS事案では、金銭補償だけを求める訴訟は費用倒れになる可能性が高く、勧められないといいます。
フランスの研究者・実務家も、損害賠償より削除を求める方が被害者の求めに合うと述べています。
日本の現状を振り返ると、慰謝料の水準は低い一方で、賠償が認められる表現の範囲は欧州より広い面があります。
この状態で金額だけを一律に引き上げれば、単発の批判や論争の中での強い言葉にも重い賠償が科されかねません。
賠償額が上がれば、正当な批判や告発までが萎縮するおそれがあります。
権力者や企業が、批判を封じるために高額の賠償請求を使うリスクも高まります。
5 「どの表現に、いくら」を問う議論を
法務省が具体的な金額の基準を示さず、考慮要素の明文化から始める方針を取るのは、その意味で妥当でしょう。
問われるのは、どの要素をどう書き込むかです。
虚偽の犯罪事実を広く拡散する投稿や、執拗に繰り返される攻撃には、今より明確に高い賠償を認めてよいはずです。
法務省の国内調査でも、犯罪を摘示した投稿や投稿回数の多い事案は高額になる傾向が出ています。
この方向を法律で後押しすることには、十分な意味があります。
一方で、公共的な論争の中での論評や単発の侮辱については、賠償の成否そのものを表現の自由に照らして慎重に判断する視点が欠かせません。
増額と同時に、賠償の対象をどこまでとするかの線引きも議論されるべきです。
救済の手段も慰謝料だけではありません。
研究会では、投稿の削除を求める差止め請求の明文化も論点になっています。
被害者が早く安く投稿を消せること、そして発信者の特定にかかった費用を確実に回収できることは、慰謝料の上乗せに劣らず被害者の利益になるはずです。
「安すぎる」という批判に金額だけで応えれば、別の誰かの言葉を縛ることになりかねません。
研究会には、被害者の救済と表現の自由をともに見据えた、精度の高い議論を期待したいと思います。
参考資料:日本経済新聞「SNS誹謗中傷の被害者を救済、慰謝料を引き上げ 法務省検討」(2026年9月29日)/法務省民事局「インターネット上の名誉権侵害等の損害賠償額等に関する調査報告書」(2026年4月)/公益社団法人商事法務研究会「インターネット上の権利侵害における損害賠償請求に係る外国司法判断の実情に関する調査研究報告書」(2026年)
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